居心地観察会 佃島・月島

日 時:平成27年6月11日(木) 13:30

 有楽町線・大江戸線 月島駅集合
天 候:晴れのち曇り  参加人員:約15名
案内人:上沼、丹羽
観察行程:月島駅~佃島~大川端リバーシティ(石川島)~新佃島~月島(もんじゃストリート、横丁路地等)~勝どき駅

 本日は天候もよし。女性お二人を含め多数の参加を得て賑やかな観察会となった。案内人に用意して戴いた図面が分かり易く、現在地を確認しながら興味深く歩くことが出来た。


(1)佃島
 月島駅6番出口を出て新佃島地区を経由し佃島に向かった。佃島の完成から大分後で新佃島が埋め立てられたので、お互いの道路の方向が異なる。接合部は三角形の公園等で調整されている。
 佃島東側部分、入口に佃天台地蔵尊と書かれ両側に赤い旗の立っている狭い路地を入る。途中に祠があり中に天然石に描かれた地蔵が安置されている。祠の入り口に立つ銀杏の大木が天井を貫いているのには驚いた。

 この路地を抜けると佃の船入堀に出る。朱色に塗られた佃小橋を渡ると西側部分(隅田川側)の島だ。島の北東端には摂津にある神社のご神体を勧請したという住吉神社がある。8月の例祭は賑やかに行なわれるようで、立派な神輿が格納されていた。

 メイン道路はほぼ田の字型、十字路になっている通りは3間(2.7m)道路だったが、東西方向の道は大戦時に火災の延焼を防ぐため拡幅されたという。街区内の路地は大変狭く半間(0.9m)が基本、ひと一人が通るのがやっとである。
 佃島は徳川家康が摂津国佃村・大和田村(現在の大阪市西淀区)の漁師達を江戸に移住させたことが起源という。

 佃村は家康の御前にだす魚の献上や大阪の陣での海上隠密活動に功績があった。

 当初、佃村一行は毎年漁期にのみ江戸に滞在していたが、1630(寛永7)年石川島南の干潟を幕府から拝領した。

舟入橋

住吉神社


 漁師達はこの干潟を利用しながら自前で造成工事を進め、十余年をかけて1644(正保1)年、約8,500坪の島を完成させ故郷の名前を取って佃島と名付けた。
 江戸湊の波風を避ける「舟入掘」を造るため大小二つの島を東西に並べて造成した。そして江戸城と江戸の町に向かう隅田川側を正面とし、中央に渡船場がつくられた(佃の渡し)。

 明治になって新佃島の埋め立てが完成し(明治29年)、佃島の東側の島と石川島が陸続きに、昭和39年に佃大橋が完成し月島も陸続きになった。
 石川島と佃島、新佃島が現在佃1丁目~3丁目となっている。

涼む人

佃島の半間露地


 佃小橋から北側の眺めは、前方にリバーシティのタワーマンション群が並ぶ特異な風景。船入堀からの写真がよく紹介されているが、少し昔のものと比べてみると堀の両側は大分改変が進んできていることに気付く。
 佃島は佃煮発祥の地である。将軍に献上した残りの小魚を保存食にしたのだという。隅田川側に丸久、天安、田中屋の3軒の佃煮の老舗があった。この辺りは古い趣きのある建物が並んでいたようだが、新しいビル等に建て替わっていて、僅かに天安店に昔の面影が残っていた。

 丸久の横に劇作家北条秀司の「雪降れば佃は古き江戸の島」の句碑があった。

 

佃小橋から石川島方面

佃 天安


(2)石川島 
 佃島の住吉水門に架る小橋を渡ると昔の人足寄せ場だった所に出る。中央区佃公園となっていて隅田川沿いの護岸前には広重の浮世絵のレリーフが設置されている。この先が旧石川島である。
 石川島は1626(寛永3)年に旗本石川八左衛門が隅田川河口の島を徳川家光から拝領し屋敷を構えた。

 石川氏が永田町に転出後の1853(承応2)年、江戸幕府が水戸藩に命じて石川島に造船所を建設した。その後民間に払い下げられていたが1979(昭和54)年に操業停止した。

 人足寄せ場は石川島監獄署となり、それを三井倉庫が買い取っていたが、これと石川島播磨造船所の敷地と合わせた約9haの土地に「大川端リバーシティ21」の再開発が始まった(昭和61年)。

 三井不動産、住宅・都市整備公団、東京都、都住宅供給公社などにより一体的に計画され、バブル期の都心居住の先がけとなる開発が行なわれタワーマンションが林立する地となった。

中央区佃公園より隅田川

前方の中央大橋に至るカーブ


 シティ内ピアウエストスクエアにある「石川島資料館」で石川島・佃島の歴史を勉強する予定だったが、あいにく休館日。居心地の良いロビーで休憩させてもらった。

 

(3)新佃島

 リバーシティをつぶさに歩くのはまたの機会にとして、中央大橋からリバーシティを貫く大通りを歩いて新佃島地域に戻った。

 新佃島の主要道路は十字に交差する佃仲町通りと佃大通。佃仲町通りがリバーシティに突き当るところにはかつての石川島造船所の正門があった。二つの通りは多くの労働者が通う道で商店街が形成されていたようである。

 

 この辺りも高層マンションが景観を支配しているが、明治、大正の建物が残り、昔ながらの路地も見られる。

 佃仲町通りのライオンズタワー月島(32F)の向い側に「魚がし江戸や」の木製看板がみえる。ここだけが取り残された如くの気配だが営業はしているようだ。チョット崩れそうに見えるのがかえって趣きがある。
 佃大通りの東側部分にある中島商会の銅板張りの看板建築は緑青の色が異彩を放っている。

魚がし江戸や

中島商会


 横丁に入ると幾つかの路地があり、良く手入れされた植栽があるもの、緑が少なく素っ気ないものなどいろいろである。
 ライオンズタワー敷地内に路地と称して歩行者道がつくられていて、環境共生住宅の認定を受けているとの掲示。

 気持ち良さそうな歩行空間だが、歴史やコミュニティの臭いは希薄である。

新佃島の路地

ライオンズタワー敷地内再生緑地


(4)月島
①月島の形成
佃大橋に通じる国道473号線を挟んで佃地区と反対側(南西側)が月島地区である。
明治になって隅田川は堆積する土砂により船舶の往来に支障をきたすようになった。そのため東京府は隅田川の浚渫を行ない、その土砂で埋立て造成を始めた。
 明治25年月島1号地(現月島)、明治27年に月島2号地(現勝どき1~4丁目)、明治29年新佃島(現佃3丁目)と次々に完成させた。
 更に、大正2年月島3号地(現在の勝どき5~6丁目)、昭和6年月島4号地(現在の晴海)と続いた。
 月島は当初、埋立地全体の総称であったので、勝どきには月島消防署、月島第2小学校、月島埠頭などの名称が残っている。
月島の中央を走る清澄通りは幅員36mの大街路。その両側に6間(10.8m)道路が碁盤目状に配置された。更にこの碁盤目街区を二つに割る3間(5.4m)道路が清澄通りに平行につくられた。
 当時この地域は隣接する石川島造船所に関連する工場や倉庫が立ち並び、多くの労働者の流入により人口が急増した。

 一つの街区が大きかったため大正期、労働者用長屋の宅地とするため民間事業者により路地が形成されていった。路地は私道で9尺(2.7m)が基本であった。
 月島地区は太平洋戦争の戦災を免れたため、この当時の街並みが残っているのだという。

 

②月島もんじゃストリート
 西仲通りは6間(10.8m)道路で、明治40年代には通りの真ん中に露店が出るようになり、夜も賑わい「夜店通り」とも呼ばれた時期もあったという。
 現在この通りの飲食店は大半が「もんじゃ焼き」屋に占められていて「月島もんじゃストリート」とも呼ばれている。
もんじゃ焼きを食するのは夕方として、昼に別メニューのあるお店を探すのが一苦労だった。
 三角形のトップライトを持つ歩道上のアーケードは昭和63年に完成したもの。街づくりのコンセプトは「行ってみたい・歩いてみたい・楽しく出会う街」だそうだ(商店街振興組合ホームページ)。
 

もんじゃストリート


 通りには若い人達が多く、もんじゃ焼き店の品定めするグループがあちこちにあった。
 通りの真ん中を歩いて建物の上方をみると、三角が並ぶアーケードの上に屋号など入った看板建築の上部がチラリと見える。三角アーケードでなかったらどんな街づくりになっただろうか?などと想像してみる。

 

もんじゃ焼き品定め


③月島の路地
 月島は路地の街である。9尺の路地に両側から木造2階建てが顔を向ける親密な空間がまだ残っている。 
現在、建築基準法では接道道路の最低幅員は4mだ。これは密集市街地の路地などの狭小道路の解消を目指したともいえるが、既存不適格建物の更新が進まず、空き家の増加や防災上の課題をもたらした。
 そこで、中央区は9尺道路(2.7m)の通路に加え両側に0.3mの壁面線後退を加えた合計3.3mの幅員で建替えの要件を満たすとの緩和措置を行なうようになった(建築基準法42条3項道路;地区計画による)。

 住宅は狭く、老朽化しているものも多いが、制度を活用し路地を生かして建替えた思われるものも見られた。ある程度のマンション化は仕方がない面があるが、いろいろな工夫で伝統的な街並みが将来に向けて少しでも保全されたらと思う。

空中通路のある路地

路地にもんじゃ店あり

緑の多い路地


④まち歩きのあと
 居心地観察後の反省会はもんじゃストリート3番街の「もんじゃ 蔵」となった。もんじゃ焼きは初体験だったが、具に色々の種類があり鉄板を囲んで焼きながら食べると結構いける。「もんじゃ焼」の原形は小麦粉を溶いて薄く焼いたものに醤油や蜜つけて食べていたもの。焼く時に文字や図柄を描いて楽しみながら食べた「文字焼き」から名付けられたとのこと(前出HP)。
 若い人達の中で我が年寄り軍団は大いに盛り上がったが、少々はた迷惑の感があったかもしれない。
 もんじゃ焼きのあとは路地に入りこんだ。「もつげんき」の旗が立つ元気なおばさんのお店は路地に簡単な丸椅子を置いただけだが大繁盛。ここでもチョット一杯。

もんじゃ蔵にて

繁盛する路地の居酒屋


 帰りは勝どき駅まで歩いた。早くからもんじゃ店に入ったので日暮れの光がまだ残っている時間帯。月島橋から西仲橋の先に築地方面のビルが見える。紫がかった空を背に灰色のビルと橙色の光が運河(月島川)の川面に映っていた。反対側には晴海のトリトンスクエアが見える。

 今日の観察地域は超高層住宅群と路地地区の低層住宅群の対比が際立っていた。佃島、月島の伝統的な街並みがリバーシティの魅力に寄与しているのは確かだろうが、一方、リバーシティが月島地区のマンション開発の進行を後押ししている面もあるといえよう。
 街並みの保全に向けて各方面の取り組みが行なわれているが、全体としては佃島や月島の伝統的な街並みは衰退の危機にあるようにも見える。行政や地元の人達の持続的な努力に期待したい。

土産(田中屋の佃煮)

暮れなずむ月島川

(月島橋より西仲橋方面)


(参考文献)
月島再発見学  志村秀明著  ㈱アニカ
生活景  (社)日本建築学会編  学芸出版社
         (第5章 月島  志村秀明)
月島西仲共栄会商店街振興組合  ホームページ